昼下がりの講義は退屈で眠くなる
教官の声が遠くに聞こえ、黒板の文字が霞んできた
僕はかぶりを振ってノートを開き、挟んであった写真を手に取った
何度見ても不思議な写真だ
ひとり暮らしをしていた祖父が亡くなり、
その祖父の家に大正時代からあったという茶箪笥の
引き出しの奥から出てきた、古ぼけた一枚の写真
そこにはひとりの女性が写っていた
傷んだ紙片からは何十年もの時の経過が感じられる
が。
僕は食い入るように写真を見つめた
煉瓦の壁を背に立っているその女性のいでたちは
どう考えてもこの写真が撮影されたであろう時にそぐわない
少しウェーブのかかったロングヘア
宝石のような飾りのついた、肩まで覆うほどの大きなチョーカー
体のラインを際立たせるボディスーツ
手錠をかたどったようなベルトを巻いた腰を傾けている姿は
ファッションモデルのようだ
しかし…仮にそうだとしても
そんな過去の時代に、こんなファッションがあったのか
こんな服装が流行っていたのだろうか
この女性はいったい…誰だ
祖母がモデルをしていたという話は聞いたことがないし
この女性に祖母の面影はない
写真を裏返すと
青いインクが変色して消えそうになった文字で
UTAKATA としるされているのが読み取れた
この女性の名前なのか
写真を撮った場所を指すのか
何かの記号なのか
誰がこれを書いたのか
手がかりになるものはないか、僕は祖父の家中を捜した
しかし、何も見つけることはできなかった
それからというもの、僕の頭からこの写真のことが離れなくなった
気がつくとこの写真のことばかりを考えていた
この写真の女性のことを知りたい
叶うはずのない恋心を、僕は抱きはじめていた
写真や映画、小説の世界に深く入り込んで、感慨に耽る
誰しも経験があることではないだろうか
想像を膨らませ、あたかも自分がその世界に佇んでいるような感覚
僕は彼女のことを何も知らない
しかしこの写真の世界で僕は彼女と談笑し
大正の町やそれに続く長い並木道を一緒に歩いている
僕は大正時代の町の様子をインターネットで調べた
実際にその時代の面影を残している町を訪ねた
そうしているうちに、彼女のイメージがどんどんリアルになっていった
今にもその街角から彼女が現れるのではないかとさえ思えた
僕達は何度も、想像の町でデートを重ねた
ひとりで道を歩いても
ひとりでベンチに腰をおろしていても
すぐ隣に彼女がいる気がした
彼女の笑顔が、いつも僕の心の中にあった
しかし…
僕は彼女の名前すら知らない
僕の頭の中で呼ぶ彼女の名は、UTAKATA
うたかたの彼女
まさにその通りだ
僕が我に返ると、いつも彼女はいなくなる
この写真だけを残して。
…いや。
僕は手の中で茶色に煤けた写真に異変が起きようとしているのに気づいていた
そうか…
そうだよな
君がこの写真のすがたのままで今もいるわけがない
それに答えるかのように、写真の中の彼女が少し寂しげに微笑んだように見えた
彼女はそのまま煉瓦と一緒にボロボロと灰のように崩れ、僕の手からこぼれ落ちた
散らばった灰は見る間にこまかく砕けて粉になり、やがて跡形もなく消えた
僕はずいぶん長い間、ぼんやりしていたようだ
講義は終わり、周りの学生たちが席を立とうとしていた
僕はまだ、しばらく彼女のことを想い続けるだろう
しかしやがてそれは薄れ、微かな記憶のひとつになるのだろう
僕も席を立った
僕の前に座っていた女子が講義室を出て行くところだった
僕はその子の背中にいつも見ていたうたかたの彼女の後姿を重ねて見ていた
